唐朝

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唐朝

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朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3国が鼎立ていりつし、これに日本が進出を企てるという状況であった。中国に統一国家ができると、隋・唐ともに高句麗に遠征軍を送り、攻撃を加えたが、高句麗はよく持ちこたえた。そこで唐は新羅と結ぶこととし、百済(660)・高句麗(668)をつぎつぎと滅ぼした。
なお663年に日本は百済の再建を目指して唐・新羅と白村江に戦ったが(白村江の戦い)、唐軍の大勝に終わり、日本は半島から手を引くこととなった。この後、新羅は唐(王朝)勢力を半島から退けて、統一国家を樹立した(676)。
新羅は都を金城(現慶州)におき、骨品制こっぴんせいという独特の貴族支配により唐朝にならって官僚国家をつくり、仏教を奨励した。

9世紀後半になると、唐(王朝)衰退はいよいよ進行し、政治腐敗によって民衆の生活は困窮の度を増した。こうした中、塩の密売商人で科挙の落第生ともいわれる黄巣こうそうが、仲間の王仙芝おうせんしとともに挙兵すると、窮乏した民衆がつぎつぎと参加して巨大な民衆反乱となった( 黄巣の乱 875〜884)。
黄巣軍は全中国を荒らしまわり、長安を占領して勢力をふるったが、反乱軍から寝返って唐朝の汴州べんしゅう節度使となった朱全忠しゅぜんちゅうや突厥とっけつ沙陀部さだぶの援軍により、かろうじて鎮圧された。
しかし、この反乱によって唐の支配は事実上崩壊し、各地の藩鎮が公然と自立・割拠するなかで、907年、唐は朱全忠(後遼の太祖)によって滅ぼされ、中国は五代十国の分裂時代へと突入した。

第二には、服属民族の唐朝に対する反抗・自立の動きが活発化し、羈縻政策きびせいさくが破綻したことである。このため、辺境を強力な軍事力によって防衛する必要が生じ、十節度使(藩鎮はんちん)が設置された。

また、土地国有を理念とする均田制のもとでは大土地所有が抑制されたが、官僚身分に対しては官人永業田かんじんえいぎょうでんと呼ばれる土地所有が公認されていた。しかし、九品中正という制度的特権を失った唐代の貴族層にとって、手段をつくして代々朝廷の官職につくことが重視され、そのため官界での活動や社交に有利な長安・洛陽への一族をあげての移住が進み、貴族層はしだいに地方における大土地所有という基盤から分離する傾向が強まっていった。この傾向は、安史の乱による地方の荒廃によっていっそう進行し、貴族層は王朝権力に密着した 官僚貴族となっていった。
一方、両税法による土地所有の公認により、地方には、貴族層にかわってあらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばしていった。こうして土地所有という基盤を失って王朝権力に寄生する存在となった貴族層は、唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていったのである。

また唐朝を支えるべき官僚層も、出自の違いや政策の相違によって派閥抗争をくりかえし、とくに9世紀半ばには、牛僧孺ぎゅうそうじゅと李徳裕りとくゆうを首領とする牛李の党争と呼ばれる激しい派閥抗争が展開され、政治の混乱に拍車をかけた。

まず政治面では、安史の乱に際して、唐朝は内地にも藩鎮をくまなく設置して、各地の防衛にあたらせたが、この藩鎮が強大な地方権力に成長し、しばしば朝廷に反抗して唐朝を苦しめた。

塩は人間の生活にとって欠かすことのできないものである。しかも中国のような広大な国土をもつ国ではかなり生産地が片寄っており、その供給は人々にとってきわめて重要である。塩の専売は、かつて前漢の武帝(漢)時代におこなわれていたが、それ以後はあまり大規模にはおこなわれてこなかった。安史の乱という非常事態のなかで、財務担当の任にあった第五琦きは専売の利益に着目し、産塩地に役所をおき、塩鉄使という専門の役職を設けてこれにあたった。この結果、原価の十数倍の利益をあげて、唐朝の重要な財源となったのである。しかし、唐末には塩商人が暗躍し、闇の塩(私塩)が出回った。唐朝を滅亡に追い込んだ黄巣こうそうが塩の闇商人とされるのは象徴的である。なお塩や茶などの専売収入は、これ以降の歴代の王朝にとって重要な収入源となった。

ううう

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